《Bosnia and Herzegovina:Bosna i Hercegovina / Босна и Херцеговина》

第14回1984年サラエボ冬季オリンピック
撮影場所:サラエボ(FD)

※首都サラエボ市は、ムスリム人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(FD)と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(SR)に分割されている。いわゆる旧市街および中心地はFD側。ボスニア・ヘルツェゴビナおよびFDの“首都”はサラエボ、SRの“首都”はバニャ・ルーカ。

開催期間/1984年(昭和58年)2月8日〜19日
実施競技種目数/6競技39種目
参加国・選手数/49の国と地域・1274人(役員など含めると2,600人)

この頃のオリンピックは、1984年のロサンゼルス大会で民間資本を導入した(商業主義大会)とはいえ、まだまだ開催地での、膨大な費用は無視できず、赤字必至だった。そのため開催地に立候補する都市が少なく、この大会も開催が危ぶまれた。

そこで札幌市(第11回、1972年大会)が再度立候補したが、開催地立候補締め切り直前に、チトー大統領の後押しもありサラエボが立候補する。決戦投票で(3票差)サラエボが開催地に選ばれた。

(2003年5月撮影)

サラエボ駅前広場に建っていた看板(銃痕だらけ)

“狼の子供”絵は「ブチコ」と呼ばれるサラエボ冬季オリンピックのマスコット。一般公募で選ばれた。ブチコは、ユーゴスラビアでは、冬・勇気・力を象徴する。この看板のブチコは、手の指が、人差し指と中指が交差しているが、これは「幸福を招くおまじない」である。

サラエボで、冬季オリンピック開催が決まった時は、国家の経済は好調だった。

だが世界的な石油ショックなどで、経済は翳り、1982年には遂に赤字国家に転落してしまう。1978年に1米ドル=27ディナールだったものが、1984年には1米ドル=124ディナールになっていた。食糧は不足気味(ほぼ自給自足)で済んだが、電力不足、物不足は深刻だった。

サラエボ冬季オリンピックから、スポンサー協力を世界に求めた。
日本の三菱自動車が協賛スポンサーとなったスケンデリア(アイススケート場、プレスセンター)前の道路は、「三菱アベニュー」となり、スケンデリアの横の道は「ギャラン(←三菱車)ストリート」となった。

サラエボ冬季オリンピックの直接経費は、1億6,300万ドル(約391億2,000万円)。ボスニア・ヘルツェゴビナとサラエボ市が各1,250万ドル(30億円)づつ、旧ユーゴの5共和国/2自治州・連邦政府が1,100万ドル(26億4,000万円)を捻出。残りの3/4はテレビ放映・協賛金・広告代などから捻出した。

冬季五輪開催が決まってから、ボスニア・ヘルツェゴビナは、空前の建設ラッシュを迎えた。

旧市街は改修して綺麗に整備され、新市街の無機質な高層マンションは色とりどりのペンキが塗られた。サラエボ駅も改修・化粧直しされた。サラエボ空港はお粗末なものだったが、滑走路に誘導計器を設置したことで、ジャンボ機の離発着が可能になった。

Hodiday Innなどホテルが15軒も建てられた。ホテル不足は、ボスニア政府とサラエボ市役所の音頭で、ボスニア伝統家屋などを整備してもらい、ここに外国人観光客をさせることで補った。

サラエボ空港のまわりは、放牧農家が点在するだけの田舎だったが、サラエボ冬季オリンピックの約1年程前、選手村や報道陣用の集合住宅(7〜10階建)、600世帯分が出来た。1階が商店街になっている集合住宅が5棟あり、サウナ付き体育館もあった。

冬季オリンピック開催がサラエボに決まったとき、サラエボは平凡な都市に過ぎなかった。スキー場はヤホリーナ山(1913m)に一つ、スケート場は市内に一つあるだけだった。街は石炭燃料で煤け、年間100日も山が見えず、市内中央部を流れるミリャッカ川は生活排水と工場排水で汚れきっていた。

1977年から世界銀行の融資を得て、PPME(人間環境保全計画)が実行された。サラエボ冬季オリンピック開催が決まったことで、弾みがついた。下水処理、石炭から天然瓦斯へ、スムーズに移行した。また市内全域には地下ケーブルと電話線が張り巡らされた。

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1月のサラエボは雪は少なかったが、2月になると降雪量が増した。聖火は、民族の結束のため、旧ユーゴ連邦全ての共和国と自治州をまわり、サラエボに入った(1984年2月7日)。

(2004年5月)

ボブスレー・コースだったトレベビチ山
(手前にオリンピック・スタジアムがある)

手前中央の建物は、産婦人科医院。サラエボ包囲時にはセルビア系勢力(RS/SDS)から砲撃を受け、多くの入院患者や乳児が犠牲となった。

産婦人科医院のすぐ前に、コシェボ五輪スタジアム(6万人収容、サッカー場)、その前には、ゼトラ・アイスアリーナがある。

産婦人科医院の奥にピオニルスカ・ドリナ動物園がある。ここは《サラエボ包囲》の北の最前線だった。包囲後はセルビア系勢力(RS)のスナイパー(狙撃手)に狙い撃ちされ、または餓死した。1992年11月3日、最後に生き残った熊が死んだ。

サラエボの小高い丘の中程のコシェボ五輪スタジアムで開会式が行われた。スタジアムの後ろにはボブスレー・コースのトレベビチ山がそびえる。大会期間中、気温3度だったが連日、超満員の観客で埋まった。だが大雪と強風に悩まされた大会だった。

男子アルペンスキー回転のメイヤー兄弟(フィル・メイヤー、スティーブ・メイヤー、アメリカ)が金・銀を獲得、女子ノルディックスキーのリサ・ハマライネン選手(フィンランド)が3冠王。フィギュアスケート(アイスダンス)では、イギリスのトービル&ディーン組が「ボレロ」の曲で滑り、「芸術点オール満点」を獲得したのが話題になった。

日本は、男子スピードスケートで、黒岩彰に期待が集まったが不振(10位)。伏兵の北沢欣浩選手が男子スピードスケート500m銀メダルを獲得して、日本スケート界初のオリンピック・メダリストとなった。女子スピードスケートでは、橋本聖子がこの大会から連続出場を果たす。

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(2001年10月撮影)

コシェボ複合スポーツ施設

墓石の奥に見える大きな施設はゼトラ・アイスアリーナ。その右側のグランドはゼトラ屋外競技場、オリンピック開催中にはスピード・スケートのリンクがあった(閉幕後はグランドとして使われていた)五輪スタジアムは(写真に向かって)右奥にある。

《サラエボ包囲》の最中、犠牲者の数が墓地の容量を超えてしまったため、ゼトラ屋外競技場を臨時墓地として使われた。

ゼトラ・アイスアリーナは、セルビア勢力の砲撃により、ボコボコにされて廃墟になってしまった。セルビア側の発表だが、サラエボ包囲期間、この施設は「セルビア人女性の強制収容所」、つまり「強姦用の収容所」になっていた、らしい。収容人数は約30名。サラエボ市内では他に、サラエボ大学建築学部など計6カ所に強姦用収容所があったらしい。

ゼトラ・アイスアリーナは1999年3月に再建され、同年7月、ここで“バルカン・サミット”が開催された。

「五輪スタジアム」も砲撃により、観客席など破壊された。ここの地下は人道援助の団体が、貯蔵用倉庫として使っていた。このスタジアムも復興し、1998年9月には、U2のコンサートが開催された(観客約5万人)。通常は、サッカーの試合がおこなわれている。

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(2004年5月)

SKENDERIJA

スケンデリア skenderija は、サラエボ冬季オリンピック開催時、オリンピック・スケートリンクとプレスセンターがあり、スケンデリア前の広場で表彰式が行われた。

オリンピック閉幕後、スケンデリアの地下には喫茶店やショッピングセンターができた。《サラエボ包囲中》は地下壕の役目を果たし、サラエボ市民が集まることができる場所として活躍した。

スケンデリアの前の川岸に面した通り(ミツビシ・アベニュー)には、国連防護軍フランス部隊が有刺鉄線のバリケードを張り、土嚢を積んだ。UNの戦車・装甲車などが詰めていた。




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※サラエボ包囲(1992年5月2日〜1996年2月26日、1395日間)

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●セルビア系勢力(SDS/SRS/DSS)=ボスニア・ヘルツェゴビナの、セルビア系政党《セルビア民主党》SDS の民兵組織が代表的なもの。これがスルプスカ共和国(Republika Srpska/RS)の“国軍”の母体となる。この他に、セルビア共和国から義勇的に派兵している民兵組織も参加している。セルビア共和国のセルビア民族主義政党《セルビア急進党》SRS、《セルビア民主党》DSSが代表的な民兵組織である。ロシアを主体とした義勇軍も参加している。

●クロアチア系勢力(HVO/HDZ)=ボスニア・ヘルツェゴビナの、クロアチア系政党《クロアチア民主同盟》HDZ の民兵組織が母胎になっている。ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア共和国(HVO- Hrvatsko Vijece Obrane /Croat Defense Council, the Croat Army of Bosnia and Herzegovina )の建国と同じくして、“クロアチア防護評議会”という“国軍”が結成された。他にクロアチア共和国軍が越境して参加している。外人部隊といわれる義勇兵もいた。

●ムスリム系勢力(SDA)=ボスニア・ヘルツェゴビナの最大政党であり、ムスリム民族主義政党でもある《民主行動党》SDAの民兵。同政党の党首は、アリヤ・イゼトベゴビッチ幹部会議長(大統領)。この他にアラブを主体としたイスラーム諸国からの義勇兵もいた。

●ボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍(ABH)= the Croat Army of Bosnia and Herzegovina。主にクロアチア人とムスリム人(ボスニア人)で構成された。1993年春頃より、事実上、ムスリム系勢力の軍事組織となり、民主行動党(SDA)と共に行動する。

ユーゴ紛争(コソボ紛争は含まず)での直接の犠牲者350万人(徴兵や民族差別から逃げた人々、脱走兵などの数は含まず…推定20万人)。ボスニア・ヘルツェゴビナでは住民の73%(270万人)が難民/避難民となった。UNMIK上級代表(ビルト氏)によれば、居住地の80%が被災・破壊された。

■ユーゴ紛争
旧ユーゴ連邦では、建国の父でありカリスマ性のあったチトー大統領死去(1980年)直後に経済危機が襲う。連邦政府は集団指導体制で乗り切ろうとするが、経済危機が長引くにつれて、南北経済格差が拡大するとともに各国間のエゴが吹き出す。連邦政府は有効な政策が打ち出せず、労働者のデモが相次ぐ。この軋轢を一部の政治家が「民族主義」に転換した。彼らは「民族主義運動」を権力基盤獲得の野望と保持の為に最大限に利用した。1990年、各共和国で行われた複数政党制選挙では民族主義政党が台頭する。1991年6月25日、スロベニア共和国とクロアチア共和国の「独立宣言」をもって連邦は崩壊した。

ボスニア紛争(92年3月頃〜95年11月頃)

ボスニア分割戦争。主要3民族のうちムスリム系とクロアチア系は独立に賛成、セルビア系は反対した。紛争当初、ムスリム系とクロアチア系は共闘したが、軍事的に圧倒的優位なセルビア系勢力が国土の7割を軍事占拠する。セルビアとクロアチアによる隠密の「分割協議」が露呈した93年春頃より、三つ巴の戦闘になる。NATO軍の軍事介入を経て、51%のスルプスカ共和国 Република Српска(Republika Srpska/RS)=旧セルビア系支配地と、49%のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦 Federacija Bosne i Hercegovine/FD=旧ムスリム系とクロアチア系支配地、という2つの構成体から成る国に再編された。