|
《Bosnia and Herzegovina:Bosna i Hercegovina / Босна и Херцеговина》
※首都サラエボ市は、ムスリム人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(FD)と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(SR)に分割されている。いわゆる旧市街および中心地はFD側。ボスニア・ヘルツェゴビナおよびFDの“首都”はサラエボ、SRの“首都”はバニャ・ルーカ。 開催期間/1984年(昭和58年)2月8日〜19日 この頃のオリンピックは、1984年のロサンゼルス大会で民間資本を導入した(商業主義大会)とはいえ、まだまだ開催地での、膨大な費用は無視できず、赤字必至だった。そのため開催地に立候補する都市が少なく、この大会も開催が危ぶまれた。 そこで札幌市(第11回、1972年大会)が再度立候補したが、開催地立候補締め切り直前に、チトー大統領の後押しもありサラエボが立候補する。決戦投票で(3票差)サラエボが開催地に選ばれた。
(2003年5月撮影) サラエボ駅前広場に建っていた看板(銃痕だらけ) “狼の子供”絵は「ブチコ」と呼ばれるサラエボ冬季オリンピックのマスコット。一般公募で選ばれた。ブチコは、ユーゴスラビアでは、冬・勇気・力を象徴する。この看板のブチコは、手の指が、人差し指と中指が交差しているが、これは「幸福を招くおまじない」である。 ◇ サラエボで、冬季オリンピック開催が決まった時は、国家の経済は好調だった。
サラエボ冬季オリンピックから、スポンサー協力を世界に求めた。 サラエボ冬季オリンピックの直接経費は、1億6,300万ドル(約391億2,000万円)。ボスニア・ヘルツェゴビナとサラエボ市が各1,250万ドル(30億円)づつ、旧ユーゴの5共和国/2自治州・連邦政府が1,100万ドル(26億4,000万円)を捻出。残りの3/4はテレビ放映・協賛金・広告代などから捻出した。 ◇ 冬季五輪開催が決まってから、ボスニア・ヘルツェゴビナは、空前の建設ラッシュを迎えた。 旧市街は改修して綺麗に整備され、新市街の無機質な高層マンションは色とりどりのペンキが塗られた。サラエボ駅も改修・化粧直しされた。サラエボ空港はお粗末なものだったが、滑走路に誘導計器を設置したことで、ジャンボ機の離発着が可能になった。 Hodiday Innなどホテルが15軒も建てられた。ホテル不足は、ボスニア政府とサラエボ市役所の音頭で、ボスニア伝統家屋などを整備してもらい、ここに外国人観光客をさせることで補った。 サラエボ空港のまわりは、放牧農家が点在するだけの田舎だったが、サラエボ冬季オリンピックの約1年程前、選手村や報道陣用の集合住宅(7〜10階建)、600世帯分が出来た。1階が商店街になっている集合住宅が5棟あり、サウナ付き体育館もあった。 冬季オリンピック開催がサラエボに決まったとき、サラエボは平凡な都市に過ぎなかった。スキー場はヤホリーナ山(1913m)に一つ、スケート場は市内に一つあるだけだった。街は石炭燃料で煤け、年間100日も山が見えず、市内中央部を流れるミリャッカ川は生活排水と工場排水で汚れきっていた。 1977年から世界銀行の融資を得て、PPME(人間環境保全計画)が実行された。サラエボ冬季オリンピック開催が決まったことで、弾みがついた。下水処理、石炭から天然瓦斯へ、スムーズに移行した。また市内全域には地下ケーブルと電話線が張り巡らされた。 * 1月のサラエボは雪は少なかったが、2月になると降雪量が増した。聖火は、民族の結束のため、旧ユーゴ連邦全ての共和国と自治州をまわり、サラエボに入った(1984年2月7日)。
(2004年5月) ボブスレー・コースだったトレベビチ山 手前中央の建物は、産婦人科医院。サラエボ包囲時にはセルビア系勢力(RS/SDS)から砲撃を受け、多くの入院患者や乳児が犠牲となった。 産婦人科医院のすぐ前に、コシェボ五輪スタジアム(6万人収容、サッカー場)、その前には、ゼトラ・アイスアリーナがある。 産婦人科医院の奥にピオニルスカ・ドリナ動物園がある。ここは《サラエボ包囲》の北の最前線だった。包囲後はセルビア系勢力(RS)のスナイパー(狙撃手)に狙い撃ちされ、または餓死した。1992年11月3日、最後に生き残った熊が死んだ。 サラエボの小高い丘の中程のコシェボ五輪スタジアムで開会式が行われた。スタジアムの後ろにはボブスレー・コースのトレベビチ山がそびえる。大会期間中、気温3度だったが連日、超満員の観客で埋まった。だが大雪と強風に悩まされた大会だった。 男子アルペンスキー回転のメイヤー兄弟(フィル・メイヤー、スティーブ・メイヤー、アメリカ)が金・銀を獲得、女子ノルディックスキーのリサ・ハマライネン選手(フィンランド)が3冠王。フィギュアスケート(アイスダンス)では、イギリスのトービル&ディーン組が「ボレロ」の曲で滑り、「芸術点オール満点」を獲得したのが話題になった。 日本は、男子スピードスケートで、黒岩彰に期待が集まったが不振(10位)。伏兵の北沢欣浩選手が男子スピードスケート500m銀メダルを獲得して、日本スケート界初のオリンピック・メダリストとなった。女子スピードスケートでは、橋本聖子がこの大会から連続出場を果たす。 *
(2001年10月撮影) コシェボ複合スポーツ施設 墓石の奥に見える大きな施設はゼトラ・アイスアリーナ。その右側のグランドはゼトラ屋外競技場、オリンピック開催中にはスピード・スケートのリンクがあった(閉幕後はグランドとして使われていた)。五輪スタジアムは(写真に向かって)右奥にある。 《サラエボ包囲》の最中、犠牲者の数が墓地の容量を超えてしまったため、ゼトラ屋外競技場を臨時墓地として使われた。 ゼトラ・アイスアリーナは、セルビア勢力の砲撃により、ボコボコにされて廃墟になってしまった。セルビア側の発表だが、サラエボ包囲期間、この施設は「セルビア人女性の強制収容所」、つまり「強姦用の収容所」になっていた、らしい。収容人数は約30名。サラエボ市内では他に、サラエボ大学建築学部など計6カ所に強姦用収容所があったらしい。 ゼトラ・アイスアリーナは1999年3月に再建され、同年7月、ここで“バルカン・サミット”が開催された。 「五輪スタジアム」も砲撃により、観客席など破壊された。ここの地下は人道援助の団体が、貯蔵用倉庫として使っていた。このスタジアムも復興し、1998年9月には、U2のコンサートが開催された(観客約5万人)。通常は、サッカーの試合がおこなわれている。 * (2004年5月) SKENDERIJA スケンデリア skenderija は、サラエボ冬季オリンピック開催時、オリンピック・スケートリンクとプレスセンターがあり、スケンデリア前の広場で表彰式が行われた。 オリンピック閉幕後、スケンデリアの地下には喫茶店やショッピングセンターができた。《サラエボ包囲中》は地下壕の役目を果たし、サラエボ市民が集まることができる場所として活躍した。 スケンデリアの前の川岸に面した通り(ミツビシ・アベニュー)には、国連防護軍フランス部隊が有刺鉄線のバリケードを張り、土嚢を積んだ。UNの戦車・装甲車などが詰めていた。
|