《Bosnia and Herzegovina:Bosna i Hercegovina / Босна и Херцеговина》

スタリ・モスト Stari Most(1)
撮影場所:モスタル、旧市街

ネレドバ川 Neretva にかかるスタリ・モストは、オスマン帝国統治時代の1566年に建造された。石造りの完全な半円形のアーチ型橋で、支間は27.5m。高さ18m。鉄鉤で石を組み立てたといわれている。強度の弱い石材456個で作られているが、緻密な設計(完全なアーチ型)と正確な工事でつくられたため、今まで自然災害では崩壊はしなかった。

スタリモスト1

崩壊前のスタリ・モスト(絵はがき)
写真左がクロアチア系居住区(西)、右がムスリム系居住区(東)

モスタルという町の名は、橋(モスト)に由来しており、この美しいこの橋は「モスタル市の象徴」だった。この橋の上から川に飛び込む祭りが有名だった。※水深が浅めで、しかも川底は岩のため、川底に激突死する人も少なくなかった。

1960〜1980年代、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、観光客誘致のために、サラエボやモスタルの歴史的な旧市街を復元・整備した。

さてサラエボ冬季オリンピック開催(1984年)が決定すると、サラエボやモスタルはホテルも増え、新市街の無機質な高層住宅の外壁は、華やかな色に塗装された。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、(ボスニア内戦直前)この橋をユネスコの世界遺産への申請手続きをしていた。

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ボスニア内戦が始まってから約半年後、蜜月を装っていたムスリム系勢力とクロアチア勢力の関係は事実上破綻する。セルビア共和国とクロアチア共和国の両首脳が隠密で《ボスニア・ヘルツェゴビナの分割》を協議したのがナレたからである。モスタルでは、両勢力がネルトバ川を挟んで対峙する。

1993年11月9日午前10時15分、「補給路を断ち切る」ためにクロアチア系勢力砲兵隊が一斉に砲撃。スタリ・モストは、土台を除いて完全に《破壊》された。橋の爆破には2日間要した。この様子はアマチュアカメラマンが動画として撮影している。

クロアチア系勢力がスタリ・モストを破壊した理由として、(1)スタリ・モストを通ってムスリム系勢力がクロアチア系居住区に攻撃してくる。(2)この橋のたもとの「タラの塔」が、ムスリム系兵士や砲弾の補給場となっている、とされる。

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モスタルという町の名は、橋(モスト)に由来しているため、スタリ・モストの破壊は、「民族分断・相互不信を象徴するもの」と言われた。

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スタリモスト3

1997年5月撮影)

第一期の仮設橋
(1994年3月6日に完成)
簡単な吊り橋

まもなく、より強固な第二期仮設橋に掛け替えられた




つづく→





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■現在のモスタルは、クロアチア系住民とセルビア系住民は、ネルトヴァ川という細い川を挟んで、東《クロアチア系居住区》と、西《ムスリム系居住区》に分かれて住む。両者の友好的なムードは全くない。セルビア系住民の帰還はなされていない。

■モスタルは、正真正銘のボスニア・ヘルツェゴビナ領である。だがヘルツェゴビナ地方西部(ネルトヴァ川西部)にはクロアチア人が、沢山住んでいた。クロアチア本国とモスタルのクロアチア系勢力は、クロアチア本国への帰属を願い、その中心都市モスタルを「クロアチア人の都市」と決めつけた。

これを阻止するムスリム人(ボスニア人)との間で戦闘が始まった(モスタルのボスニア紛争)。

モスタルの戦闘で使われた武器類のほとんどは、ライフル、機関銃、手榴弾。たまにロケット砲や無反動砲(迫撃砲)。空爆の類はなかった。しかし天文学的の銃弾が飛び交ったため、どの家もメチャメチャになった。

でも他地域で「民族浄化」にあい、難民・避難民となった自民族を、戦闘要員(または人口増のための要員)として、メチャメチャになった家にも移住させ、国際社会に対しては、領土保全のための正当性を訴える道具にした。

●セルビア系勢力(SDS/SRS/DSS)=ボスニア・ヘルツェゴビナの、セルビア系政党《セルビア民主党》SDS の民兵組織が代表的なもの。これがスルプスカ共和国(Republika Srpska/RS)の“国軍”の母体となる。この他に、セルビア共和国から義勇的に派兵している民兵組織も参加している。セルビア共和国のセルビア民族主義政党《セルビア急進党》SRS、《セルビア民主党》DSSが代表的な民兵組織である。ロシアを主体とした義勇軍も参加している。

●クロアチア系勢力(HVO/HDZ)=ボスニア・ヘルツェゴビナの、クロアチア系政党《クロアチア民主同盟》HDZ の民兵組織が母胎になっている。ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア共和国(HVO- Hrvatsko Vijece Obrane /Croat Defense Council, the Croat Army of Bosnia and Herzegovina )の建国と同じくして、“クロアチア防護評議会”という“国軍”が結成された。他にクロアチア共和国軍が越境して参加している。外人部隊といわれる義勇兵もいた。

●ムスリム系勢力(SDA)=ボスニア・ヘルツェゴビナの最大政党であり、ムスリム民族主義政党でもある《民主行動党》SDAの民兵。同政党の党首は、アリヤ・イゼトベゴビッチ幹部会議長(大統領)。この他にアラブを主体としたイスラーム諸国からの義勇兵もいた。

●ボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍(ABH)= the Croat Army of Bosnia and Herzegovina。主にクロアチア人とムスリム人(ボスニア人)で構成された。1993年春頃より、事実上、ムスリム系勢力の軍事組織となり、民主行動党(SDA)と共に行動する。

ユーゴ紛争(コソボ紛争は含まず)での直接の犠牲者350万人(徴兵や民族差別から逃げた人々、脱走兵などの数は含まず…推定20万人)。ボスニア・ヘルツェゴビナでは住民の73%(270万人)が難民/避難民となった。UNMIK上級代表(ビルト氏)によれば、居住地の80%が被災・破壊された。

■ユーゴ紛争
旧ユーゴ連邦では、建国の父でありカリスマ性のあったチトー大統領死去(1980年)直後に経済危機が襲う。連邦政府は集団指導体制で乗り切ろうとするが、経済危機が長引くにつれて、南北経済格差が拡大するとともに各国間のエゴが吹き出す。連邦政府は有効な政策が打ち出せず、労働者のデモが相次ぐ。この軋轢を一部の政治家が「民族主義」に転換した。彼らは「民族主義運動」を権力基盤獲得の野望と保持の為に最大限に利用した。1990年、各共和国で行われた複数政党制選挙では民族主義政党が台頭する。1991年6月25日、スロベニア共和国とクロアチア共和国の「独立宣言」をもって連邦は崩壊した。

ボスニア紛争(92年3月頃〜95年11月頃)

ボスニア分割戦争。主要3民族のうちムスリム系とクロアチア系は独立に賛成、セルビア系は反対した。紛争当初、ムスリム系とクロアチア系は共闘したが、軍事的に圧倒的優位なセルビア系勢力が国土の7割を軍事占拠する。セルビアとクロアチアによる隠密の「分割協議」が露呈した93年春頃より、三つ巴の戦闘になる。NATO軍の軍事介入を経て、51%のスルプスカ共和国 Република Српска(Republika Srpska/RS)=旧セルビア系支配地と、49%のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦 Federacija Bosne i Hercegovine/FD=旧ムスリム系とクロアチア系支配地、という2つの構成体から成る国に再編された。