《 中華人民共和国 》

▼行き方
汽車站」または「開平汽車站」から、8路のバスで「風采中学」下車。

風采楼
撮影場所:開平市風采堂(風采中学)

「風采楼」

3階建ての「更楼」、保存状態は最高!

1〜2階建ての「風采堂」=「余忠襄公祠」と、3階建ての「風采楼」は、1906年に建築を開始し、1914年に完成した。

開平市と台山市の宗氏とされる北宗時代の名臣である“忠襄公余靖”を祀る廟(余忠襄公祠)を核に造られた。専有面積は、5,364平方メートル。

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左が「風采楼」、右が「風采堂」

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「風采堂」

3区画15棟からなる巨大な建築物

青煉瓦を用いてつくられた中国伝統様式(中華様式)の建築物だが、随所に西欧建築の意匠が取り入れられている。中央部分に“忠襄廟”がある。

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風采堂の、棟と棟を結ぶ通路


「風采堂」がある潭江大橋の南には、旧市街がそのまま残っている。ほとんど手入れがされていない(感じなので)かなりボロボロ。近年、このボロい洋風建築(騎楼)の商店街全体をペンキで塗りたっくった(雑な塗り方やで)。



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■広東省開平

開平には大小の河川が網状に流れているため、交通の要衝であるとともに、匪賊が多発する治安の悪いところでもあった。また洪水にも度々見舞われた。このため清朝時代には防犯のため、村の高台に、防衛機能・村人の避難場を備えた「更楼」の建築が始まった。

出入り口は、鉄格子も併設した2重の門で、非常に厳重だった。窓は、厳重で小さな鉄窓、分厚い壁だった。

清朝末期(アヘン戦争後)黒人奴隷が廃止されていく時代背景下、アメリカ、カナダ、オーストラリアでは、黒人奴隷に代わる廉価な労働力を求めた。中国人労働者は「苦力」として海外に出稼ぎに行った。開平出身の在外華僑は67カ国・75万人で、華僑の輩出地としても有名になった。

清朝が滅亡し、中華民国が建国された(1912〜1949年)後、開平一帯の治安状態は最悪になった。防犯上「望楼」は大いに役立ったため、「望楼」の建築ラッシュが始まった。村の出入り口には、「門楼」と呼ばれる3〜4階の小型の監視を目的とする(目立たない)楼を建てた。

1920〜30年代、海外で成功した華僑や帰国した人々は、一族の「安全」ために「更楼」を建てた。望楼には、 serchlight や警報機などを設置。壁には銃眼がある。

この時代に建てられた「更楼」は、防護に優れながら人の居住も可能なものが求められた。外観は、教会の鐘楼風というか欧州古城風というか、ともかく“華美”な更楼=「居楼」だった。ついでに西洋式建築で2〜4階建ての別荘「盧」を建てた。

更楼、門楼、居楼、盧、これらを総称して「望楼/」と呼ぶ。望楼が現在も田園の中に林立する地域が、広東省開平〜台山である。

望楼は、主に鉄筋コンクリート、青レンガ、三合土、石などでつくられた。建築スタイルは、実にたくさんあるが、大部分は中華様式と西欧様式の折衷である。

「望楼」の建築ラッシュは、第二次世界大戦開始直後まで続いた。日中戦争時代や国共内戦時代は、共産党の活動拠点にもなった、らしい。

1949年、中国は中華民国から、中国共産党支配の「中華人民共和国」になると、更楼のうち華麗な居楼(望楼も兼ねた居住する楼)に住んでいた帰国者の多くは、香港・マカオ、台湾、東南アジアなどに去った。さらにブルジュワジーを徹底的に弾圧した《文化大革命》で、残りの人々が去った。

「望楼」の“密集地”である開平には、約3000棟の望楼が建っていたが、現存する望楼は1833棟のみ。

望楼」が集中しているのは、塘口鎮(536棟:地味なものが多い)、百合鎮(385棟:三合土を使ったものなど、特異なものが多い)、赤坎鎮(200棟:凝ったものもある)、蜆岡鎮(155棟:華麗なものが多い)。

2001年6月に全国重点文物保護単位(国務院管轄)に指定された。

http://www.kaipingdiaolou.com/(中国語)
http://www.kaiping.gd.cn/(中国語)




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開平市のホームページ(中国語)
http://www.kaiping.gd.cn






2004年1月撮影