《 中華人民共和国 》

▼行き方

「高頭郷」ガオトウ の中心から、やや承啓楼の方に下ったところにある。
「高頭郷」までは、廈門またはからの“永定/下洋”行きのバスが「高頭郷」や、湖「高頭郷」の外れにある「承啓楼」の前に止まることが多い。廈門またはからの“永定/下洋”行きのバスは、経由地(ルート)が色々あるので、事前に確認が必要。他、近隣の町からのミニバスなどの便も多い。

客家円楼:北辰楼、文化大革命時に書かれた《毛主席万歳》
撮影場所:福建省永定県高頭郷

北辰楼:文化大革命(文革)時代、毛沢東思想に感銘したフリをして、楼を守ろうとした。だが、文革兵士《紅衛兵》の若者によって、内部の祠堂などを“破壊”された、そうだ。こうした楼は多い。

(内部)

3階建て、1重円、中規模の《内通廊式円楼》
中庭部分に、各々の家庭が《平屋の小屋》を建てている。厨房兼台所の平屋もあるが、家畜小屋やトイレになっている平屋もある。この平屋の小屋の建築様式は、全く規則性がない。

現在は、1/3の世帯が居住している。かなり荒れ果てている円楼だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■受難だった客家円楼、文化大革命期(1966-1977年)

毛沢東は、中華人民共和国の建国宣言以来、ソ連(スターリン)型社会主義国家を建設。毛沢東の「大躍進政策」は中国の実情に合わず、大失敗に終わり、中国共産党や行政機関での実権を、劉少奇に譲った。

劉少奇ら執行部は、従来のソ連(スターリン)型社会主義政策を部分放棄、資本主義経済を部分導入させて、困窮しきっていた中国経済を、立て直し、中国国民の信頼を得る。

毛沢東は、激しく嫉妬した、といわれる。

毛沢東は失脚したとはいえ、個人的な人気は依然あった。そこで毛沢東は、天敵の劉少奇ら執行部を党や行政機関から追放するために、毛沢東への個人崇拝を含む極左的な運動《文化大革命》を展開させた。

主旨は「資本主義の復活を断固阻止、共産主義への新たな道を築く」こと。共産主義的な組織的に基づく農業を奨励した。毛沢東は、中国共産党や行政機関での実権を取り返すべく、腹心である林彪ら《4人組》を操った。

毛沢東は、毛沢東を盲目的に崇拝する青少年を《紅衛兵》として容認。資本主義者を、富豪/大地主本人及び子孫/農工業以外に従事する者(商人、医師など)/宗教指導者、などと位置づけ、《紅衛兵》を動員して、徹底的に弾圧した。

《紅衛兵》は各地で“資本主義者”を吊し上げ、資本主義者の家屋、各種宗教施設などを破壊しまくった。《紅衛兵》は次第に暴徒化して、警察は勿論、毛沢東ですらコントロール出来ない状態になり、中国全土は大混乱に陥った。

毛沢東は最大の目的だった、天敵の劉少奇ら執行部を党や行政機関から追放することに成功。主な執行党員は、自宅軟禁され、食事も病気治療もほとんど受けさせてもらえない中、次々と死亡していった。

客家人は、商人や医師、研究者として成功しているものが多いため、《紅衛兵》に狙われた。また客家人は、先祖崇拝ゆえ、家の中に祖堂がある。これが毛沢東の主張する「宗教信仰者」と解釈され、破壊の対象となった。

そのため、円楼や方楼の大門には、《毛主席万歳》や政策を称える文句を書いて、熱烈支持者を装い、破壊を逃れた。だが、客家人の師弟の中には、文化大革命に洗脳され《紅衛兵》になった者も少なくない。こうした者が楼の中にいると、《親族告発奨励政策》に唆されて、親を告発したり、楼内の祖堂他を破壊した。

比較的豊かな土楼では、内部の窓枠や梁に、こった彫刻や彩色が施されている。だが文化革命期、彫刻は取り外されたり、彩色は塗りつぶされたりしてしまった。

文化大革命期に放棄された円楼・方楼はかなりの数にのぼる、そうだ。毛沢東が死亡し、文化大革命は終了したが、文化大革命後、核家族化が進んだため、大家族制度は元に戻ることはなかった。






2001年3月撮影